昭和は遠くなりにけり
2013年7月23日 時事ニュース大阪同志社クラブの6月例会が新阪急ホテルで開催されました。
今日の講演は同志社クラブのメンバーである中村鋭一氏(元朝日放送アナウンサー)に「昭和は遠くなりにけり・・・」と題して講演いただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%8B%AD%E4%B8%80
昭和5年滋賀県で生まれ、坂本村の500坪の家で育ち、同志社大学商学部を経て昭和26年に朝日放送に入社されました。
中村家は昭和の時代では中流階級でしたが、500坪の家に住み、庭の手入れをするおとこし(男衆)さんや女中さんがいたとのことです。
そう思えば、私の父親はサラリーマンでしたが、電炉メーカーの工場長をしており
その当時の中流階級と言えたかもしれません。
吹田の駅前に自宅があり、子供4人がそこで育ちましたが家には住み込みの女中さんがいました。
父親は子供4人を大学まで行かせてくれましたが、昭和を振り返ると今のようにテレビや冷蔵庫、洗濯機などのない時代でしたが心豊かに育つことが出来た良き時代でした。
今日の講演は同志社クラブのメンバーである中村鋭一氏(元朝日放送アナウンサー)に「昭和は遠くなりにけり・・・」と題して講演いただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%8B%AD%E4%B8%80
昭和5年滋賀県で生まれ、坂本村の500坪の家で育ち、同志社大学商学部を経て昭和26年に朝日放送に入社されました。
中村家は昭和の時代では中流階級でしたが、500坪の家に住み、庭の手入れをするおとこし(男衆)さんや女中さんがいたとのことです。
そう思えば、私の父親はサラリーマンでしたが、電炉メーカーの工場長をしており
その当時の中流階級と言えたかもしれません。
吹田の駅前に自宅があり、子供4人がそこで育ちましたが家には住み込みの女中さんがいました。
父親は子供4人を大学まで行かせてくれましたが、昭和を振り返ると今のようにテレビや冷蔵庫、洗濯機などのない時代でしたが心豊かに育つことが出来た良き時代でした。
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